こんばんは。タンソンニャットざねです。本日はタンソンニャット空港からプノンペン見学の様子を投稿致します。飛行機乗らなきゃ。
25日プノンペン到着
シェムリアップから長距離バスに乗りやって参りました。夕方に着いたのですが、街中は渋滞が物凄く、プノンペンはカンボジアの他地域と比べると、圧倒的に大都会でした。
プノンペンは他の東南アジア地域と比べると、特段物価が安いという感じはしません。(もちろん日本であればスーパー玉出クラスの安さですが。)特にスーパーやコンビニへ行くと、多くの商品が国外からの輸入品であることも(表記がクメール語でないものが沢山ある)一因ではないかと思われます。カンボジアの食品製造は、まだまだこれからという感じがします。
あとカンボジア全土の話なのですが、大体どこも1ドル=4000リエルで計算しており、その両通貨を使って会計するため、とにかく計算が煩わしいです。100リエル札が邪魔すぎますね。
プノンペンでトゥクトゥクに乗って移動していると、とても信心深いトゥクトゥクドライバーを見つけてしまいました。
確かに正面が見えることによる安全性よりも、仏に見守られた方が安全なのかもしれません。
26日
キリングフィールド
午前中はキリングフィールドの見学を行いました。
キリングフィールドとは、ポル・ポト政権時代(1976-1979)に、ポル・ポト派(当時の派閥・軍隊)によって大量虐殺が行われた場所の俗称です。カンボジア国内に同様の施設が3000以上あったようです。殺害された被害者はカンボジア全土で200~300万人と考えられており、当時の推定人口800万人のうちの約3分の1という尋常でない数となります。
女性や赤ん坊も大量に虐殺されました。これは、「雑草を抜くときは根こそぎやらねばならぬ」という考え方に基づき、親類などが復讐を図らぬよう一族皆殺しにするところからスタートしたのでした。
多くの赤ん坊たちが木の幹に頭を打ち付けられ、殺されたのでした。この木の写真をアップロードしようと何度も試みたのですが、何故かうまく処理されませんでした。
虐殺はエスカレートし、見境いなく多くの人間が殺されました。
当時ポル・ポト派もお金や物資が不足していたため銃などを用いず、ほとんどの殺戮には日常用具が用いられました。
こんなショボい竹の棒で人を殺す為には、一体どの位殴らなければならないのでしょうか。
記念塔には大量の遺骨が保管されていました。多くの遺骨には、虐殺の痕跡が見られました。
トゥールスレン収容所
正午から昼過ぎまではトゥールスレン収容所の見学を行いました。
ここは過去にS21と呼ばれた、処刑場に送るための供述を人々から得るための拷問・収容施設でした。施設は高校を改造して作られており、備品の机や中庭の遊具が拷問器具として使われていたのでした。また、独房もレンガや木材で作られており、かなり原始的な感じがしました。
キリングフィールドよりはこちらの方が、展示内容が詳しいと感じました。特に、過去ここに収容されており、生き残った芸術家の
ヴァン・ナットさんが描いた当時の拷問風景からは残酷極まりない印象を受けました。
拷問が行われたベッド。発見された時には手足が切断された遺体が幾つも横たわっていたそうです。当時の写真も展示してあります。
最初は政治犯拷問施設として機能させるつもりだったようですが、ここでも多くの人間が見境なく拷問・処刑されたのでした。
処刑の為にはあくまで罪状が必要であり、罪のない一般市民に、CIAと繋がっているといった類のバカけた供述を吐かせ、処刑場へ送る、或いはそのまま殺害するといったことをしていたようです。
近年施設内の所々が写真撮影禁止になったようで、あまり多くの写真がないため、詳しい様子を知りたい方は他の方のブログなどを読んでみてください。
負の遺産を一日見学してみて
世界史を勉強していると、過去に行われた様々な虐殺を知ることとなります。ただその中でも、同じ民族内でこれほど直接的・原始的な手段によってこの規模の虐殺が行われた事例は他に無いのではないでしょうか。
この大量虐殺に行きつく前に、カンボジアは外交・政治・経済的に追い詰められていました。(詳細な経緯を調べるのはお任せいたします。ポル・ポト政権樹立前には、カンボジアは当時の大国達の利益追求・政治的思惑に翻弄されていたように思われます。また、カンボジアはベトナム戦争の戦場にもなっており、アメリカからの爆撃を受けていました。国内の政治も腐敗しきっていたようです。カンボジア経済はかなり疲弊しており、ポル・ポト政権前にも、農村ではすでに多くの餓死者が出ていたようです。結果ポル・ポトがプノンペン入りをした時には、拍手喝采で迎え入れられました。その様子も写真展示されています。)
これらの背景による極限状況、或いは集団心理など、これほどまでに残酷なことができた理由を様々に分析することはできるのでしょうが、当時人々が実際に感じていたことは、当事者たちにしか分かりません。
しかしこうした過去を学び、理解しようと努め、次の世代に伝えていくことは重要なことではないでしょうか。こうした事態は繰り返したくないですから。
またこうした状況に思いを馳せ、現在の我々が置かれている環境と比べてみることで、考えさせられることも多々あるように思います。
こうした内容の記事を書くと、僕の筆致ではどうしても浅薄な感じになってしまいます。ただ少しでも多くの人に、この出来事を知ってもらえた方が良い気がするので、結局投稿致します。
ワット・プノン
陰惨な気分を引き摺りつつ、夕方からは街歩きをしました。
ワット・プノンはプノンペンの名前の由来になった由緒あるお寺です。参拝したところ、多くの(たぶん)地元の年配の方が、孫と思わしき子供を連れて来ていました。
堂内には多様なタイプの仏像が安置されており(よく見ると中央下には寝ている仏様も)、壁面は仏教の説話をモチーフにした絵画で埋め尽くされていました。(僕の知識では、この類の壁画は全て仏教説話モチーフなのですが、間違っていたらどうかご指摘ください。)
面白いことに、こういう壁画にも地域性は現れるもので、この堂内で描かれている人間や仏様は基本的に二重まぶたで、タイで見た壁画類は一重・二重まぶたが半々くらいな感じがしました。
日本や中国では一重まぶたが多いですよね。(え、気にしてないですか?)皆さんも仏教施設を訪れることがあれば、一度よく見てチェックしてみてください。
よほど信心深い人なんだなと勘違いされるかもしれません。
リバーサイド
日没時には、リバーサイド(トンレサップ川沿い)を散歩しました。綺麗に舗装されており、多くの市民達の憩いの場となっていました。
分かりづらいですが、彼らはけん玉をして遊んでいました。見たことないアクロバットな技を連発していたところを見ると、プノンペンのけん玉レベルは相当なものと思われます。たぶん。
クルーズと発展した対岸の街並み。ポル・ポト時代に荒廃した状態から、中々なスピードで発展しています。
そのまま川沿いを歩いていると、寺の一種のような施設がありました。
この日はカンボジアで定められている仏日だったようで、多くの人々が線香を持って並んでおりました。
国中の人々が年齢関係なく上座部仏教に関わっている様子は、タイに通じるものがあります。
僕の好きなお坊さん自撮りシリーズ。エンジョイしてる感と、袈裟とのギャップがなかなか。
上座部仏教の細かい戒律は国によるみたいですが、カンボジアでは僧侶が公衆の面前で堂々と喫煙していました。ちなみに喫煙場所は、上の人が沢山集まってる写真の付近でした。価値観って分からんものだなあと思いつつ。
そのまま暫く歩くとカジノNagaworldに突き当たりました。
ここは世界一敷居の低いカジノと言われており、ドレスコードなど一切なく、事実上誰でも入場できているようでした。中には親に連れられた小さい子供もいました。
日本のパチンコでよく見かける感じの、ボロいシャツを着た地元のおっさんも沢山いました。20時過ぎ頃に行きましたが、平日夜の為なのか、仏日の為なのか、或いはその両方の為か、割と閑散とした感じでした。白け過ぎていて、何も賭ける気になれず退散しました。
そしてここも、施設内撮影禁止だったのでした。
そんな感じでヘビーな感じのプノンペン見学でした。次回はベトナム・ホーチミンです。これまた重めの内容ですが、ぜひお楽しみに。
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